【日本遺産】入来麓武家屋敷群について
今回は僕が現在住む入来麓武家屋敷群について紹介しよう。
鹿児島に縁のない人には「武家屋敷」ってとても珍しい存在だと思う。が、鹿児島のベースとなった薩摩藩は4人に1人が武士だったこともあり鹿児島ではあまり珍しくない。ビックリするくらいそこらへんにある。しかし、入来麓武家屋敷群はそこらへんにある武家屋敷とは一味違う。
なぜなら、入来麓武家屋敷群は知覧武家屋敷群、出水麓武家屋敷群と並び、国(文化庁)の重要伝統的建造物群保存地区(武家町)に認定されているちょっとスペシャルな場所なのだ。
国から重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)に認定された理由は以下の通り
そして令和元年には日本遺産にも登録されている。
令和元年、「薩摩の武士が生きた町〜武家屋敷群『麓』を歩く〜」の構成資産のひとつとして日本遺産に登録
入来麓とは?
清色城跡
ただ、この場所自体はもっと前から山城(求聞持城)があったようだ。
なお落石や崩落などもあるので歩ける場所は制限されている。マムシも出るそうなので行くときは注意!
ちなみに、殿様も有事以外はこんな山の中ではなく、もっと町に近いところ(後に「御仮屋」と呼ばれる)に住んでいたのだという。
御仮屋跡(入来小学校)
以前、校長先生に呼ばれ校舎内に入ったが、教室と廊下の間に壁がなく廊下から教室がよく見える造りになっている。教室と同様に校長室も外からよく見える造りで、全体的に風通しのいい学校だと感じた。
この階段の上に大手門があり、その奥に入来小学校が建っている。
国有形文化財「旧増田家住宅」
これは旧増田家住宅前の広場で行われたお月見会の様子。
これは中で火事が起きているわけではなく、かやぶき屋根を長持ちさせるためにスギをもやして屋敷全体をいぶしているのだ。
月に一度、第三月曜日に行われている作業風景。
作業しているのは市役所の方や地域の方々なのだけどこれは大変な作業だ。
赤城神社
武家門(かやぶき門)
町並み
入来麓のグルメ
西郷隆盛に似た大将が営む「隆盛」だ。昼はランチ。夜は居酒屋として開いている。
このお店のウリとしてはなんといっても、店先で飼っている鶏だろう。
鹿児島は鶏を生で食べる文化がある。
この隆盛では朝に〆た鶏を夜に出してくれる。
鳥刺しは新鮮そのもの。卵料理も朝に採れた卵を使っているので本当に美味しい。
入来麓でサムライツーリズム
宿泊や温泉について
開湯300年という歴史を持つこの温泉は、外観は多少くたびれて見えるかもしれないが、宿泊スペースは近年リニューアルされており綺麗だった。
なお、ここの特徴はなんと言っても温泉の泉質。「鉄分」、「塩」、「重曹」が驚くほど含まれていて、白いタオルを浸けたら変色するほど。これだけ金属の含まれている温泉もなかなかないんじゃないかと思う。この温泉に入るために遠くから来る人もいるそう。
その他の宿や温泉施設
入来麓の近くには温泉がたくさんあるのでお気に入りをいくつか貼っておこう。
ちなみに、鹿児島の温泉は銭湯感覚なので、基本的に石鹸・シャンプー類は置いてないと思った方がいい。店で売ってないこともあるので各自用意。あと、どこでも源泉かけ流し。
おまけ
入来麓の歴史
清色城は東南北の三方を清色川が廻流し、周囲約2.8kmの天険の山城である。全山厚いシラス層に覆われ、雨水や河水の浸食による自然の堀や絶壁多く、川岸から5,60度の急勾配で70mも突立つ堅城は北薩屈指の名城と言われた。この城内の郭名に求聞持城があるが、同署には昔から虚空菩薩を祀る石祀があって、疱瘡流行時には村中の婦女子が疱瘡踊を奉納して悪疫終息を祈った。1この由来は天平九年(737)の天然痘大流行時に中央政府の大臣十一名死亡時に虚空蔵求聞持法という攘災呪儀を執行して以来、天変・悪疫流行時に同法を修したことから地名化したといわれている。なお、同城=虚空蔵山には赤木神社を祀り、同所から夏至、冬至、春分等の八節の日の出を観測してその方向に村内の神社を配置してあることによって、古代入来院の首長はこの城麓=入来院に在住していて暦日を知り、村人の生活指導をなしていたことが確かめられた。
求聞持山麓の清色川から300mばかり下流一帯を船瀬と呼ぶが、船瀬とは奈良時代に設置した船着場の名称である。入来麓の船瀬は養老年代(717~724)前後に新設されたようだが、管理役人には造船瀬料田や船瀬功徳田が支給された。この船瀬では、仙台の薩摩国府用の川舟が発着したが、管理者は後年船瀬氏を称した。
入来の名称は延歴14年(796)の大政官府で諸国で税物を収納する倉院の名称としての「入来院」とあるのが初見である。後これが地名化して入来院地区は現入来院町・樋脇町・川内市内の中村町・久住町・楠元町の広域の称となった。しかし以後の史書にはわずかに長和二年入来院地頭藤原頼忠が水田を新田官に寄進したとか、保延元年(1135)の石清水八幡の入来院・東郷等への耕作沙汰状や久安三年(1147)入来院弁済使別当伴信房等の氏名が見えているに過ぎない。
文治元年平家滅亡により、千葉常胤が入来院群司職~地頭職に補任、しかし宝治元年(1247)の三浦事件で千葉氏は失脚、北薩地区地頭職に相模国の渋谷光重が補された。光重は二男以下の五子を薩摩に下向させ、東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城の諸所を分領させた。入来院を領したのは五郎房定心である。彼は直ちに前代の余勢を保つ伴信俊父子に服従を誓わせ、領内の検地をなして租米の処分法を定めた。次に置文によって領内を数子に分領させ、清色村の本宗領とし、分家筋は本宗家の指揮に従うべきこととその他京都大番役・祭祀・法事等に対する心得等の留意点を書き列ね、これが遵守を命じた。以後同家は総領制を継承して北薩に武威を振るうことになった。
入来院渋谷氏は清色城を本拠とし、後入来院氏を称した。清色城はほぼ入来院の中央に位置し、薩隈両国府間の要衛として重視されていた所であった。三代公重時代に元冠の国難が起こり、弟有重。至重以下八十余人戦死し、戦後兄弟共一級戦功賞(田十町)を現福岡市に給与された。入来では兄弟を若宮に祀り、慈光寺を建てて厚く弔った。この戦後渋谷重郷が鎮西談義所の奉行四人中に補任されたことで、当時渋谷一族の勢威は島津氏を制圧していたと推量できる。建武中興には重基(四代)、重勝(五代)は宮方として綸旨を受け、子の重頼は九州探題今川了俊の招請で武家方となり、肥後の国へも出動、了俊じゃ重頼を掃部允(かものすけ)に推挙、薩摩国の兵粮米徴収権をも与えた。
(2)清色麓
近世島津藩では藩内を百十余の外城として家臣団を駐屯させたが、その武家団地を麓(府本)と称した、だが入来麓はその百年も前に清敷麓と称していた。これは入来院庶流山口家七代重経の譲状に明記されている。「清敷麓 二牟礼屋敷 十日市俊、今ハ犬馬場也 屋敷 堀之内麓寿昌寺前」
近世薩藩では麓に接して野町商店街を設けさせたが、入来郷の野町は元亀・天正頃には開設されたようである。長亨算田帳の「まちの後」大永時代の「町頭の地蔵堂」、天正二十年(1592)の「野町」(田中家文書)等によってそれが推測できる。
文禄四年藩内諸豪の領地替えで入来院重時(15代)は大隈国湯之尾に転封、入来院は直轄公領として、新納忠元・川上忠兄・平田増宗等が新地頭に補された。平田地頭は慶長四年(1599)補任、城山麓に玉石垣土塁を囲らせた地頭館を築造、治政に当たった。同所は今麓上の入来院・田中・大濱三家の宅地となっている。平田時代に麓玉石垣通りの井然たる景観が完了した。増宗は島津義久の首席国老であったことから反対派にうとまれ、慶長十五年六月十九日本領郡山に帰る途中、土瀬戸(入来峠)近くの山道で押川強兵衛と桐野九郎左衛門に暗殺された。
重時は関ケ原戦で戦死、十六代は出水島津家の重高が嗣いだ。慶長18年重高は入来に復封、入来麓は再び入来家家臣団地として復活した。復封の前年藩内の私領主本宅を鹿児島城下に建てさせ、ここに常住させ、私領地宅は仮屋と呼ぶように命じた。以来、入来仮屋・仮屋馬場の名称が生まれた。鶴丸城大手門前の入来屋敷は現県庁の所で、入来では同所を御屋敷と呼んだ。
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