【日本遺産】入来麓武家屋敷群について

今回は僕が現在住む入来麓武家屋敷群について紹介しよう。


鹿児島に縁のない人には「武家屋敷」ってとても珍しい存在だと思う。が、鹿児島のベースとなった薩摩藩は4人に1人が武士だったこともあり鹿児島ではあまり珍しくない。ビックリするくらいそこらへんにある。しかし、入来麓武家屋敷群はそこらへんにある武家屋敷とは一味違う。


なぜなら、入来麓武家屋敷群は知覧武家屋敷群、出水麓武家屋敷群と並び、国(文化庁)の重要伝統的建造物群保存地区(武家町)に認定されているちょっとスペシャルな場所なのだ。


国から重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)に認定された理由は以下の通り 

 (一)伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀
 (二)伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持している
 (三)伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示している


そして令和元年には日本遺産にも登録されている。

令和元年、「薩摩の武士が生きた町〜武家屋敷群『麓』を歩く〜」の構成資産のひとつとして日本遺産に登録




入来麓とは?

そもそも入来麓ってなんなのよ?って思いません?麓って山の裾野のこと?

薩摩藩では効率よく領地を統治するために藩内を113の行政区(外城)にわけて、それぞれの土地に武士を住ませたそうだ。そして、その行政区の中心地を「」と呼んだ。麓はいわば武士団地を指す。ただ、入来の場合は薩摩藩に組み込まれる前から「清色城(山城)」の裾野を麓と呼んでいた
入来麓」は上の写真を見てもらうとわかりやすいが、川と山に囲まれ地形をうまく活用した城塞都市で広さは東西約750m 南北約550mの約19.2ヘクタール。山の上には領主の入来院氏が居を構えた「清色城(きよしきじょう)」があり、武士たちは平地で農業をしながら暮らしていたそうな。※なお、普段は農業を営み有事の際は武士として働く人を「郷士(ごうし)」と呼び薩摩藩の武士はだいたい郷士だったそうだ。

清色城は、この天然の曲輪(くるわ)と武家屋敷群、次で紹介する「切通(きりとおし)」や「空堀(切堀ともいう)」が強固で、島津家と敵対し戦が起きた時もなかなか陥落しなかったとのこと。

参考リンク
 ・入来院定心(渋谷定心) 入来に来た渋谷家の最初の人(領主)



清色城跡

入来院氏が居城した清色城が建てられたのはいつのことか明確ではないが、南北朝(1336年 – 1392年)末期のことではないかと言われている。なお入来麓もだいたいそれくらいの年代に作られたと言われている。

ただ、この場所自体はもっと前から山城(求聞持城)があったようだ。

ここは清色城に通じる山を切り開いて作られた「切通」。人1人が通れる程度の広さしかなく、清色城の本丸を攻めるにはここを通るしかなかった。
敵は一斉に攻められないし上から石とか落とされるだろうし、ここを攻めるのは大変だ。
切通を抜けるとこんな感じ。シラス火山灰の山を掘って作られた道(空堀)はまるで迷路のようだ。
個人的にはこの荒れた雑林や竹林が「破棄された城」感を醸していてとても好き。

なお落石や崩落などもあるので歩ける場所は制限されている。マムシも出るそうなので行くときは注意!
町の案内板に貼ってる清色城縄張図。清色城には77の平坦面が確認され、16の曲輪群で構成されているのだとか。敵はどこが本丸なのかわからないから、そのひとつひとつを攻めていくしかない。これは大変だ。
現在は切通を抜けて山路を5分ほど登っていくと「本丸」に着く。切通からの高低差はそこそこあり、身軽な恰好で登っても結構疲れる。道も整備されていない時代に甲冑を着て登るのはさぞ大変だっただろう。

ちなみに、殿様も有事以外はこんな山の中ではなく、もっと町に近いところ(後に「御仮屋」と呼ばれる)に住んでいたのだという。

御仮屋跡(入来小学校)

入来院氏はいつもは山城ではなく裾野の領主館(やかた)に居たそうだ。しかし、入来院氏が島津家の家臣になり本宅(御屋敷)を鶴丸城の近く(旧鹿児島県庁跡)に移した際、ここの屋敷は「御仮屋」と呼ぶように命じられたとのこと。なお、御仮屋跡に現在建っているのは「薩摩川内市立入来小学校」。
この建物は入来町時代に建てられ、そのデザインは「御仮屋」をイメージしているという。この学校は1869年(明治2年)に開校され150年近い歴史がある。2018年度から薩摩川内市立朝陽小学校及び薩摩川内市立大馬越小学校を統合し現在の生徒数は150名程度。入来麓に小学生は数名しかいないので、生徒の大半がバスや親の送迎によって通っている。

以前、校長先生に呼ばれ校舎内に入ったが、教室と廊下の間に壁がなく廊下から教室がよく見える造りになっている。教室と同様に校長室も外からよく見える造りで、全体的に風通しのいい学校だと感じた。
御仮屋」に通じる階段。清色城跡と石碑が建っているが、これはここ一帯を表しているものになる。ここ自体は「御仮屋馬場」と呼ばれる。(馬場は馬をつないでおくところ)

この階段の上に大手門があり、その奥に入来小学校が建っている。


国有形文化財「旧増田家住宅」

入来には城跡のほかに茅葺屋根の武家屋敷もある。ここは江戸末期から明治初期に建造された旧増田家住宅。目医者をされている増田氏から寄贈された屋敷を市が昔の姿に復元した施設で国の重要文化財に指定されている。かやぶきの建物自体も興味深いが、この屋敷の中で展示されている立派な食器類も見もの。

常時ガイドさんがいるので、予備知識なく行ってもいろいろ教えてもらえる。

これは旧増田家住宅前の広場で行われたお月見会の様子。

このほか「かえんそや」と呼ばれるひな祭りや、郷土料理を作る会などでも旧増田家住宅は使われている。
もうひとつおまけに、この写真をよく見て欲しい。かやぶき屋根から煙が出ているのがわかるだろうか?

これは中で火事が起きているわけではなく、かやぶき屋根を長持ちさせるためにスギをもやして屋敷全体をいぶしているのだ。

月に一度、第三月曜日に行われている作業風景。

この作業を行うとかやぶき屋根の寿命が倍に伸びるのだとか。

屋敷の戸も全て締め切り朝9時から16時くらいまでスギを燃やし続けるそうだ。僕も撮影のために屋敷内に入ったけれど3分もしないうちに目がしみてしまったし、服にはスギをいぶした匂いがついてしまった(^^; 

作業しているのは市役所の方や地域の方々なのだけどこれは大変な作業だ。



赤城神社

旧増田家住宅から歩いて3分ほどのところに、赤城(あかぎ)神社がある。

寛政九年に清色城内の守護神として創建されたものを、現在地に遷し建立したと伝える。現在の社殿は、大正十五年に改築したものである。
左がこの神社の御神体。右にあるのが赤城神社の六地蔵塔。普通に置いてあるけれど、この石塔が作られたのは1524年らしい。なんと500年前のもの

なお、鹿児島神社庁のサイトには赤城神社は寛政九年(1797)に創られたと書かれているが、観光資源保護財団の本には、入来文書には1520年頃には登場しているとのこと。そうじゃないと地蔵と時期が合わないよなぁ…。


武家門(かやぶき門)

これは入来院氏の住宅にあるかやぶき門だ。1826年7月吉日に作られたといわれていて入来麓にある5つの武家門の中で一番古い。だた、個人宅の門なのであまりずんずん中に入ってはいけない。門をくぐる程度にしておこう。

町並み

入来麓武家屋敷は近くの川で取れた丸石を使った石垣が特徴で、ここに住む人はこの石垣を綺麗に保たなければいけない。なので、僕も生えてくる草などをちょくちょく抜いている。伝建地区ということもあり、石垣が崩れた際には市からも修復の補助金が出るそうだ。

なお、この石垣は1600年前後に作られたようで、数百年町並みが変わっていないというのはすごいことだと思う。下手に観光地化されてないからこその町並みとも言える。

ちなみに、入来麓の武家屋敷の特徴としては「外から内は閉鎖的で、内から外へは開放的」ということらしい。家から外は見やすく、外から家の中は覗きづらい作りになっているそうだ。 

ちなみに、観光資源保護財団(日本ナショナル・トラスト)が1991年に出版している「清色城と入来麓武家屋敷群」には入来麓の歴史や各家の間取りなども載っている。絶版だけど、たぶん国会図書館などにはあると思う。入来麓の各家にも配られたっぽい。


入来麓のグルメ

入来麓には現在お店が1つしかない。

西郷隆盛に似た大将が営む「隆盛」だ。昼はランチ。夜は居酒屋として開いている。

このお店のウリとしてはなんといっても、店先で飼っている鶏だろう。

鹿児島は鶏を生で食べる文化がある。
この隆盛では朝に〆た鶏を夜に出してくれる。

これが本当にうまいのだ。

鳥刺しは新鮮そのもの。卵料理も朝に採れた卵を使っているので本当に美味しい。



入来麓でサムライツーリズム

入来麓では甲冑を着て町を練り歩く体験などもできるので、興味がある方は「入来麓観光案内所」に問い合わせて欲しい。↓は数年前に撮られたサムライツーリズムの映像。


観光案内所では地図などももらえる。お土産も売ってるよ!入来麓は清色城跡を入念に調査でもしない限り、徒歩30分もあれば全体を歩けてしまう。
旧増田家住宅の説明を聞くとそれも30分程度だろうか。



以下、やや蛇足ではあるが近辺の宿泊や温泉についても書いておく。


宿泊や温泉について

現在、入来麓に宿泊施設はない。入来麓から3km程度の位置にある「諏訪温泉」がおそらくもっとも近い宿泊施設だろう。(山の上なので歩くとちょっと大変)

開湯300年という歴史を持つこの温泉は、外観は多少くたびれて見えるかもしれないが、宿泊スペースは近年リニューアルされており綺麗だった。


なお、ここの特徴はなんと言っても温泉の泉質。「鉄分」、「塩」、「重曹」が驚くほど含まれていて、白いタオルを浸けたら変色するほど。これだけ金属の含まれている温泉もなかなかないんじゃないかと思う。この温泉に入るために遠くから来る人もいるそう。







その他の宿や温泉施設


入来麓の近くには温泉がたくさんあるのでお気に入りをいくつか貼っておこう。

ちなみに、鹿児島の温泉は銭湯感覚なので、基本的に石鹸・シャンプー類は置いてないと思った方がいい。店で売ってないこともあるので各自用意。あと、どこでも源泉かけ流し。


入来温泉湯之山館(温泉のみ)
入来麓から車で5分程度。2つの温泉が楽しめる。サウナもあり、ドライヤーも完備。石鹸類ナシ。

市比野温泉(宿多数あり)
入来麓から車で10分程度。ここの温泉地帯は超軟水が特徴。入るとツルツルスベスベ。飲むと美味です!

紫尾温泉(宿多数あり)
入来麓から車で30分程度。これまで入った中でも一位二位くらいのトロトロ温泉。最強のツルスベ温泉。

おまけ

この記事を書くにあたって、前述の書籍「清色城と入来麓武家屋敷群」を参考にした。9~11ページには入来麓の歴史が先史時代から載っている。絶版本なので一部それを抜粋しよう。入来の事を詳しく知りたい人だけ読んで!もっと詳しく知りたい人は図書館でじっくり調べて!


入来麓の歴史

1.先史時代
 入来麓の地域は中世入来院地頭入来院氏の本拠とした清色城からその城麓一帯である。この城山丘陵南端の松山ヶ迫遺跡で一万二千年前の細石刃・石核や縄文早期の吉田式、前平式土器など多量が出土したことで、太古時代から麓一帯に住民のいたことがわかった。

2.古代
(1)求聞持(ぐもんじ)城

 清色城は東南北の三方を清色川が廻流し、周囲約2.8kmの天険の山城である。全山厚いシラス層に覆われ、雨水や河水の浸食による自然の堀や絶壁多く、川岸から5,60度の急勾配で70mも突立つ堅城は北薩屈指の名城と言われた。この城内の郭名に求聞持城があるが、同署には昔から虚空菩薩を祀る石祀があって、疱瘡流行時には村中の婦女子が疱瘡踊を奉納して悪疫終息を祈った。1この由来は天平九年(737)の天然痘大流行時に中央政府の大臣十一名死亡時に虚空蔵求聞持法という攘災呪儀を執行して以来、天変・悪疫流行時に同法を修したことから地名化したといわれている。なお、同城=虚空蔵山には赤木神社を祀り、同所から夏至、冬至、春分等の八節の日の出を観測してその方向に村内の神社を配置してあることによって、古代入来院の首長はこの城麓=入来院に在住していて暦日を知り、村人の生活指導をなしていたことが確かめられた。


(2)船瀬

 求聞持山麓の清色川から300mばかり下流一帯を船瀬と呼ぶが、船瀬とは奈良時代に設置した船着場の名称である。入来麓の船瀬は養老年代(717~724)前後に新設されたようだが、管理役人には造船瀬料田や船瀬功徳田が支給された。この船瀬では、仙台の薩摩国府用の川舟が発着したが、管理者は後年船瀬氏を称した。


船瀬氏は名家として郷民に尊敬されていたらしく、鎌倉時代末(1332)の清色村検田帳には船瀬殿と敬称つきで記帳してある。

(3)入来の地名

 入来の名称は延歴14年(796)の大政官府で諸国で税物を収納する倉院の名称としての「入来院」とあるのが初見である。後これが地名化して入来院地区は現入来院町・樋脇町・川内市内の中村町・久住町・楠元町の広域の称となった。しかし以後の史書にはわずかに長和二年入来院地頭藤原頼忠が水田を新田官に寄進したとか、保延元年(1135)の石清水八幡の入来院・東郷等への耕作沙汰状や久安三年(1147)入来院弁済使別当伴信房等の氏名が見えているに過ぎない。


3.中世
(1)入来院地頭渋谷氏

 文治元年平家滅亡により、千葉常胤が入来院群司職~地頭職に補任、しかし宝治元年(1247)の三浦事件で千葉氏は失脚、北薩地区地頭職に相模国の渋谷光重が補された。光重は二男以下の五子を薩摩に下向させ、東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城の諸所を分領させた。入来院を領したのは五郎房定心である。彼は直ちに前代の余勢を保つ伴信俊父子に服従を誓わせ、領内の検地をなして租米の処分法を定めた。次に置文によって領内を数子に分領させ、清色村の本宗領とし、分家筋は本宗家の指揮に従うべきこととその他京都大番役・祭祀・法事等に対する心得等の留意点を書き列ね、これが遵守を命じた。以後同家は総領制を継承して北薩に武威を振るうことになった。


 入来院渋谷氏は清色城を本拠とし、後入来院氏を称した。清色城はほぼ入来院の中央に位置し、薩隈両国府間の要衛として重視されていた所であった。三代公重時代に元冠の国難が起こり、弟有重。至重以下八十余人戦死し、戦後兄弟共一級戦功賞(田十町)を現福岡市に給与された。入来では兄弟を若宮に祀り、慈光寺を建てて厚く弔った。この戦後渋谷重郷が鎮西談義所の奉行四人中に補任されたことで、当時渋谷一族の勢威は島津氏を制圧していたと推量できる。建武中興には重基(四代)、重勝(五代)は宮方として綸旨を受け、子の重頼は九州探題今川了俊の招請で武家方となり、肥後の国へも出動、了俊じゃ重頼を掃部允(かものすけ)に推挙、薩摩国の兵粮米徴収権をも与えた。

 応永四年(1397)島津元久・伊久の大軍により清色城陥落、しかしまもなく奪回、島津氏から入来院殿と広域豪将名で呼ばれるに至った。

 入来院氏の極盛期は重聡(11代)、重朝(12代)の父子時代、明応~天文期(1492~1555)約六十年間であった。北は阿久根から南は姶良町まで広大所領大名となった。しかし永禄十二年(1569)末に島津氏に降り、その一武将となり、近世は入来私領主として明治維新に至るのである。

(2)清色麓

 近世島津藩では藩内を百十余の外城として家臣団を駐屯させたが、その武家団地を麓(府本)と称した、だが入来麓はその百年も前に清敷麓と称していた。これは入来院庶流山口家七代重経の譲状に明記されている。「清敷麓 二牟礼屋敷 十日市俊、今ハ犬馬場也 屋敷 堀之内麓寿昌寺前」


 この文亀元年(1501)文書によって現入来麓犬之馬場では十日市が開かれていたことや、麓地区を堀之内とも通称していたことがわかる。麓の初見文書としての史料価値は大きい。

(3)野町

 近世薩藩では麓に接して野町商店街を設けさせたが、入来郷の野町は元亀・天正頃には開設されたようである。長亨算田帳の「まちの後」大永時代の「町頭の地蔵堂」、天正二十年(1592)の「野町」(田中家文書)等によってそれが推測できる。


4.近世
(1)公領時代

 文禄四年藩内諸豪の領地替えで入来院重時(15代)は大隈国湯之尾に転封、入来院は直轄公領として、新納忠元・川上忠兄・平田増宗等が新地頭に補された。平田地頭は慶長四年(1599)補任、城山麓に玉石垣土塁を囲らせた地頭館を築造、治政に当たった。同所は今麓上の入来院・田中・大濱三家の宅地となっている。平田時代に麓玉石垣通りの井然たる景観が完了した。増宗は島津義久の首席国老であったことから反対派にうとまれ、慶長十五年六月十九日本領郡山に帰る途中、土瀬戸(入来峠)近くの山道で押川強兵衛と桐野九郎左衛門に暗殺された。


(2)私領時代

 重時は関ケ原戦で戦死、十六代は出水島津家の重高が嗣いだ。慶長18年重高は入来に復封、入来麓は再び入来家家臣団地として復活した。復封の前年藩内の私領主本宅を鹿児島城下に建てさせ、ここに常住させ、私領地宅は仮屋と呼ぶように命じた。以来、入来仮屋・仮屋馬場の名称が生まれた。鶴丸城大手門前の入来屋敷は現県庁の所で、入来では同所を御屋敷と呼んだ。


 重高復封後も麓には藩士が雑居して紛糾したが、孫重頼は藩士を塔之原等の現町外に移し、これを解決した。入来麓はこの時(万治二年)真の入来家臣団地となった。


武家屋敷の日々リターン ~入来麓武家屋敷での回顧録~

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小島健一

ここ十数年「社会科見学」や「地下施設」をWEB、書籍、テレビなどで紹介しています。
九州最後の炭鉱「池島」ではタモリさんをご案内(ブラタモリ)。
その後、長崎大学で軍艦島の3D化研究とかしてました。
鹿児島の武家屋敷を拠点に全国武者修行後、現在は埼玉在住。

https://www.kenichi-kojima.com/