太平洋戦争を今に伝える「長崎県防空本部跡(立山防空壕)」を訪れた
太平洋戦争末期の1945年3月に掘られたこの長崎県防空本部跡(通称:立山防空壕)
訪れたといっても、訪れたのは鹿児島に引越す前。そう、ちょうど一年前なのだ…
訪問直後は引越しの準備や、まだ長崎の行ってないところを訪れるためにバタバタしてて、そのままお蔵入りになっていたものを一年越しに公開。
立山防空壕は長崎歴史文化博物館のすぐ隣、歩いて3分ほどの位置にある。
現在は公園としても整備されており、誰でも気軽に立ち寄れる。
この壕に関して詳しいことは長崎原爆資料館のサイトを見てもらった方が早いが概要を引用しよう。
長崎県防空本部は、太平洋戦争中、県の防空施策の中心的役割を担っており、空襲警報が発令されると、県知事ら要員が集まり、警備や救援・救護等各種応急対応の指揮、連絡手配に当っていた場所で、壕内には知事室や警察部長室、防空監視隊本部などが配置されていました。
原爆投下時、この場所から想像を絶する原爆被害情報を国の防空総本部長官などへ送り、また、それと同時に市外各地に救援救護の手配を指令し、県外にも応援を求めました。
長崎に原爆が投下された時も実際に県知事がこの壕におり、被害状況を国に伝えたとのこと。
爆心地から離れているため情報が入ってくるのが遅れ、当初被害は軽微なものだと思っていたのだとか。
徐々に情報が入り、甚大な被害と分かった時の人々の気持ちを察すると胸が痛くなる。
ここは壕に入って最初の部屋だ。
左手にあるのは手洗い場だろうか。壁にレンガが埋め込まれているのもわかる。
奥に展示されているのは戦時中仕切りに使われていた木材。戦時中に物資が手に入らなかったため、木材を芯にしモルタルを塗り付けることで仕切りとしていたという説明が書かれていた。
奥に入ると部屋が連なっている。
ここは通信室。多くの通信機器が置かれていたのではないだろうか。
ここは長官室(知事室)。
その隣に参謀長館室、参謀室と続く。
壁に付いた模様というかシミが少し怖い。
ここは塞がれていた通路。
この一番広い空間は防空監視隊本部。技師の控室として使われたり、警電交換台などが置かれていたそうだ。入れるのは入口までで室内は立ち入り禁止。見ての通り壁面にダメージがあるためだろう。
この中で仕事をしていた方たちの証言では、原爆投下時、壕内にもかかわらず爆風で椅子から転げ落ち、棚は壊れあたりは散乱したのだとか。いかに強い爆風があったのかがうかがえるエピソードだ。
人によって見学の所要時間は異なるだろうが。10分程度あれば全体を見て回れる。
長崎に興味がある方は歴文を訪れたついでにでも、この防空壕も訪れてみてはいかがだろうか。
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